2007年08月21日

御船神事と安良里擢歌史考

御船神事と安良里擢歌史考

倉庫の整理をしていたら古い「文芸かも」が出てきました。その中に高木威一郎氏の御船神事に関する文章が載っていました。ちょうど地元の猿っ子の事を調べている最中でしたので資料として掲載
します。11月3日に宇久須の柴地区でもお歌を奉納して猿っ子を奉納します。
いわれについては、柴区の方が??の様な気が。
写真は平成11年宇久須神社祭典柴区が当番時のものです。

御船神事と安良里擢歌史考 安良里 高木威一郎
江戸時代から明治・大正と華やかに演じてきた安良里港における御船神事が
昭和十年頃御船が老朽化して使用不能となり、古来からの神幸船による海上行事が
廃絶して、替わって御船屋台の陸上行事として戦争中も続けられてきたが、
大東亜戦争の熾烈化に伴い多くの成人若者が応召されて祭事の執行が不可能となり
ついに中止のやむなきに至った。終戦後も暫く中断のままであったが、何時の時か
誰言うことなく十一月三日の例祭日になると夜中、多爾夜神社の森から御船歌の
謡声が聞こえてくるという噂が立ち、昭和二十五年頃自治会によって再び
屋台によるお祭り行事が復活して今日に至っている。しかし、往時の面影を
見ることは出来ない。
江戸時代から長い歴史をもつ貴重な郷土芸能が廃絶したまま姿を消してしまった
ことは誠に残念に思うものである。この御船神事とお船歌がいつの時代から始まったかは、
これを考証する文献がないので詳でないが、古老の言い伝えによれば何時の時代か
徳川幕府が天下泰平と五穀豊穣を祈願して、五、六尺の関船模型の雛形船に目出度
めでたの祝福船歌を納めて浦々に放流したものが、安良里港と田子港及び御前崎港に又、
東伊豆では網代港に漂着したという伝説がある。然し、これに信をおくことはできないが、
徳川実記によると慶長五年の関ヶ原戦の勝利によって、天下の覇権を握った徳川家康が
慶長八年征夷大将軍となって江戸に幕府を開き、その権力を誇示するための諸大名に命令して
江戸城の増築及び天守閣や石垣の落成を祝って全国各藩の普請役を江戸城に招待して
盛大に祝賀式を挙行し、この時出雲の阿国が歌舞伎踊りを披露して大喝采を博したことが史書に
記載されている。この時の伝えに、隅田川でも各大名選出の櫓手によって早船の櫓漕競争が
行われ、江戸市民の見物する中で一艘の船から赤い衣装のお猿の船が力漕して優勝したことが
伝えられている。このことが事実とすれば、古来安良里の御船神事で演じたお猿踊りは
この故事によるものか?昭和三十五年七月、三島由紀夫が賀茂村を取材して著した
「獣の戯れ」の終章に安良里の御船神事と御船歌を解説し「この猿おどりは、おそらく三番叟の
変形のものであり、奥羽地方に残る三番叟猿楽に類似のものではないかと思う。」と説明している。
そういえば、慶長十一年金山奉行として伊豆に来た大久保石見守長安が同十三年には
下田代官となり、その頃安良里は下田代官の支配地であった。長安が若年の頃、甲斐武田の
猿楽師であったことを思い合わせると、この長安に関係があることも考えられる。
また「ふるさと百話」に慶長十三年二代将軍秀忠の時、駿府在住の大御所家康が清水において
関船以下の軍船多数を建造して海防に力を入れ、また「駿河志料」にも家康が清水に
貝塚御殿を造営し、時の駿府城主徳川頼宣を伴って御座船に乗って海上遊覧をしたとき、
大御所と城主を迎えるため幕府御船歌が謡われたといわれる。この海上遊覧、実は敵を
欺く謀略で、大阪方の豊臣残党に対する監視の為の海防検閲が目的であったといわれる。
家康は西からの敵水軍に備え、清水港を中心に駿河湾の要衝下田港と安良里港を
海上防衛の拠点とした形跡がある。これが証拠に本村が徳川幕府創立時より正徳三年に
旗本間部隠岐守の知行所となるまで約百年間に亘って、伊豆の国では、下田と安良里が
天領(幕府の領地)として下田代官、後に三島代官の支配下にあり、又当時下田浦奉行所の
出張陣屋が安良里港にあったという鈴木郁之助氏著の安良里村史によっても頷ける。
かかる観点からみると慶長の昔、清水港における徳川家康の海上遊覧の御船歌が駿河湾を
隔てた清水の対岸、西伊豆に伝わったことも思考される。
このことは前記の幕府が軍船の雛形船に幕府船歌を乗せて浦々に放流したという
伝記と一致するものである。


御船神事と安良里擢歌の民族資料的価値

静岡の常葉大学国文科の石川純一郎先生が拙宅を訪れ、安良里に伝わる「御船擢歌」を
私が所持することを知り、拝見したいと申し入れがあったのは昨年十一月のことであった。
私は三、四年前某家にあった古本からコピーしたものを見せた処、これは古文で書かれ
相当の年代のもので貴重な民族資料であると判定された。そこで先生に安良里船歌の
出典について尋ねた処、先生曰く、これは幕府の御船歌稽古本より出たものであるとの
所見であった。更に先生が所持する「安良里擢歌(かいうた)」を発見した経緯について
尋ねた処、これは静岡県立図書館の民俗資料よりコピーしたとのことで、安良里公民館
にある大正五年九月の日付のある当時下田豆陽中学校長であった足立鍬太郎先生が
現代字に校訂した改訂本と全く同じ内容のものであった。尚、この本の原本は四国の香川大学
の図書館にあった「安良里擢歌」と同じものと浅野建二氏の解題校注が記してあった。
ところで、この幕府船歌の全国的分布について先日、常葉大学の石川先生に電話で尋ねた
ところ、これは長い戦国時代が終わって徳川の天下となり、国の平和到来を庶民に認識させ
るため、お目出度いお船歌を地方浦々に流したもので、伊豆において安良里と宇久須の芝
及び東伊豆の網代に伝承され定着したもので、南伊豆方面を調査したが該当するものがない
とのお話であった。また県下で遠州相良に御船歌が伝承されているが、これは伝統の
異なるものであるとの見解であった。そこで、網代漁協から浦廻す式御船神事と阿治古神社
祭典行事の本を戴くことを得て調査した処、安良里の神幸船による海上行事と網代の浦廻式神事
とお歌の異なる点は、昔の安良里の御神船は一隻で長さ四十五尺、巾三尺程の船を儀装し、
上部御座所で三、四人の宿老歌手が一緒に声を合わせて歌い、櫓手の若衆が左右七丁ずつ
十四丁の櫓で歌に合わせて漕ぎながら、それに囃しを入れるものであった。
網代の浦廻式は漁船四隻により、各船の左右船頭と一番歌手より三番歌手乃至七番歌が
それぞれ歌手一人が一節ずつ奉唱するところに特徴があり、安良里と異なる点である。
また歌詞は全部が安良里擢歌と同じものではないが、所々に一節ずつ幕府船歌と思われる
ものもあり、また「ノーエンコノエン」の囃言葉は共通点がある。阿治古神社の祭典行事は
御神船の御輿を若者がかついで街を練り廻るもので、お歌は浦廻式の御歌と同じである。
また、この安良里船歌については、昭和三十五年頃にも三島由紀夫が「獣の戯れ」を書くに
ついて賀茂村を訪れたのが伊豆半島に伝承される「祝福芸能」を取材するのが目的で
当村にこられた。由紀夫は、古来安良里に伝わる御船歌に興味をもって足を止め、
龍泉寺において当時、村で只一人生存する謡手の長島理八老によって三度、
レコードと十六ミリ映画に録音、録画した。その内の映画フィルムを先日、
公民館倉庫で発見しそれよりもカセットテープに再録音できたことは幸運であった。
「獣の戯れ」の終章の一部を紹介すると「安良里の村社に伝わる御船自体が己に
廃滅したのであるが、十数年前までは十一月三日の例祭日に十二丁の櫓の神幸船
に目もあやな装飾を施し、成人式の青年が漕ぎ手となり終日、湾内を回航した。
船の中央には約一坪半の部屋があって、五人の歌手の老人が御歌をうたい、歌が果てると
赤い着物を着た踊り手が猿踊りを踊った。(中略)お船歌は十二曲あって猶に二日間は要する
との話で、この時歌ったものは開歌の一曲であった。(歌の説明省略)
話は神幸船に戻るが、宿老歌手の謡うお船歌が頂点に達すると、若者の囃も一段と高く、
櫓さばきにも力が入る。やがて櫓手の若衆が一斉に「オッチョコチョイノチョイ。オッチョコマ
○コノケ。オ山デサイズルノガ夏虫、鈴虫、クツワ虫アア。オッチョコチョイノチョイ」
と囃を何度も繰り返しながら華やかに飾られた御船は全速で港内を走り廻る。
浜は見物人で一杯となり、お祭りの歓楽はクライマックスに達するのである。
この貴重な民俗文化を何とか再興保存できないだろうか。
その廃滅を惜しむものである。

昭和六十一年十一月三日発行
文芸かも第十五集より
安良里 高木威一郎氏




同じカテゴリー(郷土研究)の記事画像
出崎神社のお船 
古道
安政の大地震についての口頭記録
柴地区のやいかがし
猿踊り動画
猿踊り動画
同じカテゴリー(郷土研究)の記事
 出崎神社のお船  (2021-09-05 21:19)
 古道 (2018-02-01 20:18)
 安政の大地震についての口頭記録 (2018-01-20 21:03)
 柴地区のやいかがし (2015-02-03 20:44)
 猿踊り動画 (2013-10-25 21:29)
 猿踊り動画 (2013-10-25 21:28)

Posted by カネジョウ at 21:41│Comments(0)郷土研究
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
御船神事と安良里擢歌史考
    コメント(0)