海若子の「伊豆日記」

カネジョウ

2009年06月24日 12:52


最初に 写真と文章は何の関係もありません。
ちなみに写真は賀茂村役場が古い賀茂村の写真を集めた時のものです。
安良里と田子の間から安良里港を見た物です。

黄金崎クリスタルパークの所の信号を山側に登っていく道。
途中舗装された道路と未舗装の道路に分かれる。
今は不来ヶ坂(こじがさか)に行くには未舗装の道路が便利ですが、
本来はその下を通る舗装された道路が本当でした。
でも今は行き止まり。その昔この道は安良里との主要道路
三島連隊の野砲が馬4頭に引かれてここを登ったという。
まだ、道の名残が有るという。
この先に数年前まで椎茸を作っていたので
良く通ったが道の名残は有ったかな。
今は不来ヶ坂という名前を知る人も少なくなってしまった。
下記の文を再現して田子から小下田まで歩くのも面白いかも
しれません。




海若子の「伊豆日記」

浜川西 鈴木三和子

「伊豆日記」は、文化五年(1808)「海若子」(実名は詳らかでない)という人が、
伊豆を旅して書き綴ったもので、古文体で書かれた麗筆の文章です。
その中から「賀茂村のくだり」の部分を紹介します。
時は文化七年の秋、海若子は奥伊豆の各地を巡って雲見の浦より海路田子の浦(西伊豆町)に上陸
此より陸路をとって田子坂を登る。
さてここより、北ざまに坂路わ登りゆきて、かえり見れば風打ち吹きて田子島のわたり、
波いと白う立ちぬるに(注 海若子は険阻な道を登りつつ、人家絶えたるところで港を振りかえり..)
ふじのねは波にうつりて田子しまの  いはねにけぶる汐気たつ見ゆ
やうやう登りゆきてまた下りたるに、安良利の浦に出でたり。
(註・海若子は峠を下りつつ、道の両側にかがふる木々の紅葉するを眺めながら、浦上に出で・・・)
木の葉ちる山越えくれば吹く風の
あら利の浦にいでにけるかも
この浦より、居士が坂という山を登る。
(註・居士が坂は「不来ヶ坂」書き、険しい坂道である。昔から「二度と越すまい不来ヶ坂」とうたわれ、
石畳の所が多く、馬もまっすぐには登れず右に左に曲がりながら登った。途中「中の地蔵さん」と呼ぶところが
休息場所になっていた。)
こは、名に聞こえたる険しき登りにて、峠までは半道なり。
いはほをよじ、蔦にかかりて登りゆく苦しさは、日はん方なし。
峠に出ずるほど、いささかむすぶぺき清水もなくて、誰も苦しさに堪えず、
しるべするの子、かかることのまうけに、かねて麓にて水汲み来たりとて、酒入れたる徳利とうでたるうれしさ、
またいはん方なし。打ちよりて、吾も吾もと争い飲み足る、ねざめの水にはあらで、
かかる所にて酒呑みたるは、げに、心ゆくものなりかし。さて、ここなる松が根(註・峠の二本の老松の根か?)
に、尻打ちかけて見下ろせば、右は宇久須の浦、左は安良里の港なり。この二た所の景色、描くとも
筆にはなかなかおよぶべくなんあらぬ。ただ日んかたなき景色の面白きには、登りこし苦しさも打ち忘れて、
かなたこなた見めぐりありくに、うら枯れたる尾花がもとに、りんだうの花の咲きいでたるを見れば、
おのれひとり笑み顔なるといひけんことおぼえて、いといとをかし。
また坂道のところどころに、もみじの散り残りたるを見れば、彼の長津呂の浦などのあら磯と、
はやうちかはりて、浦風もややおだしからんとぞ覚ゆる。
さて、ここより半道下りて、宇久須の浦に出でたり、浜より十町あまり山のかなたなる宇久須の
神社にまうず。さて、こし道戻りて、松が坂という山に登る。(註.昔の松ヶ坂は険しい坂道であったが
昭和7年県道が開通して自動車道ができ、百七十余年の間に、この辺りの状況は一変した。
海若子が今の世ににあったら、何と言って驚くことだろう。)松が坂は居士が坂にまさりて、険しさいはんは、
なかなかおろかなりぬべし。名もおそろしき大洞という処を行く。されどこのわたり、
所々清水のしたたり落ちるあれば、やすらいつつ手にむすびてのみつ。
行き行きて小下田という里に出でぬ。(註.宇久須の里に分かれをつげ...)
あしびきの山また山を越え来つつ  小下田ゆくそおもほゆるかな
更に眼下に駿河の海を眺めながら、八木沢.土肥と行く。
土肥より海路内浦に至り、ここの大瀬の明神に詣でて、海若子の「伊豆の旅」は
終わっている。時は時雨の月(十月)の十日あまりのことであったと...。

昭和57年11月3日発行 文芸かも 第11集より


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